東海道新幹線0系フォーエヴァーTHE LAST RUN.-後編- [プラットホーム1999]
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・東海道新幹線0系フォーエヴァーひかりスペシャル'99
http://railway583.blog.so-net.ne.jp/2008-12-13
・東海道新幹線0系フォーエヴァーTHE LAST RUN.-前編-
http://railway583.blog.so-net.ne.jp/2008-12-14
・東海道新幹線0系フォーエヴァーTHE LAST RUN.-中編-
http://railway583.blog.so-net.ne.jp/2008-12-22
◆100系の入団
昭和60年(1985年)3月14日(木曜日)に東北新幹線が上野延伸を果たし、最高速度も210㎞/hから240㎞/hまでにアップした。この年は1月に優勝24回の第55代横綱北の湖が引退し、8月には日航ジャンボ機が墜落し、500人以上の死者を出すなど、あまりイイ年ではなかったが、東海道新幹線に新たな風が吹いた。
それは“2階建て新幹線”こと、100系の入団である。0系にとって、100系は“子供”と言っていいだろう。
東海道新幹線では21年ぶりの新形式車両の入団にレールファンのみならず、日本国民に大きな話題となった。しばらく試運転してウォーミングアップしたのち、昭和60年(1985年)10月1日(火曜日)に運行日限定(ということは0系でも運行していた)ながら、〈ひかり3・28号〉でデビューした。注目の2階建て車両は8・9号車にあり、先頭車と共に新幹線では初めての付随車(電動車ではない車両)が登場した。
特長は2階建て車両ではない。洗練されたフォルムに普通車はホンモノのリクライニングシートとなり、3人掛け座席も“強制逆向き”が解消され、回転できるようになった。8号車は食堂車で、2階に客席、1回に売店と厨房(Chuboh)を設け、ビュフェは設置されなかった。
9号車グリーン車は2階が通常の座席だが、1階は1・2・3人用の個室となる。ちなみに昭和60年(1985年)に入団したときは試作車1編成しかなく、当時は10号車にもグリーン個室があった。また、グリーン車の座席に足のせがなく、レッグレスト(一部の夜行バスについているヤツ)だったが、不評。昭和61年(1986年)に登場した量産車では足のせに戻している。10号車もグリーン個室をやめて、すべて座席となった。また、量産車の登場により、試作車もそれに合わせている。
昭和61年(1986年)11月1日(土曜日)に国鉄最後のダイヤ改正が行なわれ、100系〈ひかり〉本格デビューと共に最高速度が210㎞/hから220㎞/hにアップした。東海道・山陽新幹線では22年ぶりのスピードアップである。これにより、最速〈ひかり〉の東京-新大阪間は3時間を切る2時間56分となり、東京-博多間は5時間56分となった。また、〈こだま〉も東京-新大阪間は4時間を切り、3時間52分になる。しかし、昭和63年(1988年)3月13日(日曜日)のダイヤ改正で、新富士、掛川、三河安城の設置により、東京-新大阪間は4時間台に戻ってしまい、4時間20分となってしまう。
この当時は100系が1番輝いていた時期と言っていいだろう。日本国民の誰もが100系に乗りたがっており、まさに“究極の新幹線”だった。100系量産車の登場により、0系は22年(実は1986年も増備していた)にわたる増備にピリオドを打った。
昭和62年(1987年)4月1日(水曜日)に国鉄は分割民営化し、東海道新幹線はJR東海、山陽新幹線はJR西日本の担当となる。JR化後の0系は新たなる展開を迎える。
まず、JR東海は〈こだま〉の活性化を目的に指定席をすべて2人掛けにする2&2シート化を昭和62年(1987年)10月16日(金曜日)から開始。昭和63年(1988年)3月13日(日曜日)までに〈こだま〉の指定席2&2シート化が完了する。また、国鉄時代に発売されたフレックス(1983年1月31日から発売した新幹線通勤定期券)、フレックスパル(1986年4月から発売した新幹線通学定期券)が普及し、“新幹線通勤”がクローズアップし、〈こだま〉利用客も増加となり、平成元年(1989年)4月から、平成3年(1991年)3月までに再び16両編成に戻した。この頃は“100系効果”もあってか、東海道新幹線の利用客も増加の傾向にある。
一方、JR西日本は新大阪-博多間の〈ひかり〉の一部を“ウエストひかり”として、昭和63年(1988年)3月13日(土曜日)に石坂浩二をイメージキャラクターに起用し、私の記憶が確かならば、「我が、ままの3時間」というキャッチフレーズをひっさげてデビューした。
当初は普通車のみ6両編成だったが、すべての座席を2人掛けとして、ビュフェも“立ち食い方式”から、“坐って食える方式”にして、たちまち大好評となり、翌年の平成元年(1989年)3月11日(土曜日)のダイヤ改正で12両編成に増結。新たにグリーン車とシネマカーが登場。トンネルの多い山陽新幹線を退屈させないアイデアで、シネマカーにはほかに洗面所の横にビジネスルームを設け、ノート型パソコンやワープロが使用できるなど、“ウエストひかり”ならではのアイデア車両だったが、ビジネスルームは好評でも、肝心のシネマカーは空席続きだったため、平成6年(1994年)8月、ここは愛川欣也に御登場願おう。
「ハイ、消えた」
◆スピード&チャージで0系が衰退
JR東海は100系の増備と“100系〈ひかり〉”化を進め、0系の体質改善を進めてきたものの、時代が昭和から平成に入ると、“スピード&チャージ”に突入。JR東海は平成2年(1990年)に300系が入団させ、0系にとっては“孫”にあたる車両となるが、270㎞/h運転に向けての試験を行なう。翌年をもって、100系の増備にピリオドが打たれ、平成4年(1992年)3月14日(土曜日)から〈のぞみ〉が東京-新大阪間、2往復にてデビュー。翌年には大増発され、東京-博多間の運行となり、JR西日本も300系3000番台を投入する(走行面や車内設備はJR東海車と共通)。
JR東海は300系の投入を急速に進めていた。気がつけば、〈ひかり〉の300系化が進み、〈こだま〉は0系から100系にチェンジしつつあった。〈こだま〉は“スピードの波に取り残された列車”となってしまい、減便の方向に向かってゆく。
JR東海は余剰となった一部の100系をJR西日本に譲渡して、0系を置き換えるが、残留となった16両編成バージョンの普通車の一部も簡易リクライニングシートから、リクライニングシートンチェンジ。3人掛けも回転可能とし、サービスアップ。また、山陽新幹線限定運用車はビュフェを撤去し、こどもサロンが登場。普段は〈こだま〉で運行するが、この車両が活躍するのは“ファミリーひかり”と銘打った臨時〈ひかり〉である。こどもサロンにベビーシッター経験者の女性係員が乗務し、小さな子供を遊ばせている。また、平成9年(1997年)3月22日(土曜日)から0系4両編成車が登場し、〈こだま〉で運行している。
平成7年(1995年)5月10日(水曜日)で0系の食堂車は営業を終了し、〈ひかり〉が東海道新幹線から姿を消したのは平成10年(1998年)10月3日(土曜日)である。東海道新幹線0系は“〈こだま〉専任”となるが、ビュフェは連結しても、すでに営業休止となっており、一部の便では車内販売をやめてしまった。
気がつけば500系・700系が営業運転を開始し、300系と共に“〈のぞみ〉3兄弟”の時代に入り、東海道新幹線から0系を見る機会が激減した。“100系〈こだま〉”も当たり前になってしまった。700系の営業運転開始が引き金となり、JR東海は桜が散った平成11年(1999年)4月に0系の勇退を発表した。
平成11年(1999年)7月31日(日曜日)、臨時〈ひかり313号〉新大阪行きが0系で走ることになった。〈こだま〉の指定席2&2シートで運行するのは初めてだった。夏休み中に何度か0系〈ひかり〉が走り、レールファンにとってはなによりの“夏休みプレゼント”になった。
そして、平成11年(1999年)9月18日(土曜日)を迎えた。この日はレールファン以外の人々も駆けつけ、“国民的行事”となった。長年、「新幹線の顔」として、「国鉄の顔」として、大活躍し続けた東海道新幹線0系の最後の勇姿をひと目見ようと沢山の人々が集結した。新聞やテレビで告知していたので、興味を持ったのだろう。奇しくもこの日、NHK大相撲解説者の出羽錦忠雄が解説生活に別れを告げた。
◆東海道新幹線0系、最後の晴れ舞台
場面を東京に戻り、ホームを歩く。
どこかの車両でx氏は冷水機を見つけた。入場券では御法度の車内に入り、私とx・yの両氏は備えつけの紙コップを取って、水を入れて飲む。ところが水がメチャクチャ悪かった。味が関西の水道水と同じなのである(以前、飲んだ経験があるが、2008年12月26日の時点、どうなのかはわからない)。こんなモノは飲み水じゃないと隣りの洗面所で捨てる。そういえば、幼少の頃、高熱で〈ひかり〉の車中にて、医者の薬を飲んだことがあり、水もここの冷水機だった。あのときの水はそんなにまずくはなかったのだが…
ホーム越しから車内を眺めると、どれもこれも、もう見られなくなるのかと残念だ。指定席2&2シートは東海道新幹線のオリジナルだから、2度と見ることはないだろう。
y氏は15号車に戻り、ここから先はx氏と共にホームを歩いてみる。
14・15番線は鉄道に関心のない人たちが多いが、しばらく歩くと、5号車のビュフェで立ち止まる。普段は営業休止のビュフェだが、カウンターでは0系グッズはホームでも売っていた。0系ビュフェは「日テレ営業中ぅー(当時の流行語)」ならぬ、「今日だけ営業中ぅー」のようである。

また進んでゆくと、x氏はトイレ右横にある浜名湖を通る0系のパネル写真を発見。まさかこれが“0系の遺影”かと思いつつ、x氏は乗車口に立っているJR東海の社員の許可をとり、車内のトイレ右横にある0系のパネル写真を撮る。もちろん、私も。
3号車から先はレールファンの数が圧倒的に多く、選挙されている状態。新横浜寄りでは引退セレモニーが行なわれており、これ以上、前へ進むのが困難だ。また、は三脚や脚立で撮影したレールファンもいたが、こういうものをホームで使用するのは賛成できない。周囲の人々に迷惑がかかる。イイ撮影をしたいという気持ちはわかるが、益は公共の施設であることを頭にたたき込んで欲しい。さいわい、トラブルはなかったようだが、いつかはこういうことが起こるはずだ。これはマスコミにも言えること。「鉄道マニア」と言われる理由の1つにもなりそうだ。そういえば、平成9年(1997年)11月29日(土曜日)、500系〈のぞみ〉が東京へ現れるときも、讀賣新聞のカメラマンがホームで脚立を使用していた。これは新聞社といえども、ホームでやってはいけない行為だ。その記事は夕刊の1面トップにカラー写真を掲載していた。俺がそこに写っていないのが気に食わないけどね。

16時31分、東海道新幹線0系フォーエヴァー、〈こだま473号〉名古屋行きが発車した。
「ありがとう!!」
ホームからそういう声が多く、x氏は1人勝手に『蛍の光』を熱唱している。私はつい拍手をし、目が少しうるんだ。目が乾いてしまうとコンタクトレンズが外れてしまうから、そのほうがいい。0系との思い出がよみがえり、東京から姿を消すと、急にさびしくなった。翌日から0系は東京に現れない。日本の高度経済成長期に貢献したと言っていい0系は長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督と同様に“日本の名優、英雄、太陽”である。国民栄誉賞を受賞してもいいんじゃねぇーかと思う。
19時24分、〈こだま473号〉は終点名古屋16番線に到着した。テレビ映像で見た限りでは、こちらも1000人のレールファンらが集結しており、引退セレモニーでは須田寛JR東海会長(現在はJR東海相談役)がシャンパンを0系のフェイスにかけて、35年に渡る労をねぎらっていた。やるんだったら、プロ野球の優勝チームみたいに盛大なビールかけをやってもよかったような気がする。ホームがパニックになることはわかっているけど、郷ひろみの渋谷ゲリラライブの二の舞にはならないだろう。東海道新幹線最後の0系なのだから、無礼講でいいじゃないか。
須田会長は0系を保存することを明らかにしたものの、マジでするのならば、0系ラストラン車を16両編成まるごと保存して欲しい。動態保存をしてくれればありがたいけど、たぶんないだろう。静態保存をするのならば、ライトを常に輝かせて欲しい。ライトが煌々と輝いていない新幹線は魅力がない。私個人としては“引退しても死んでいない姿”で保存することを望む。
夜のニュースで見たのだが、隣りの16番線で撮影していたレールファンがいたことを知る。どおりで14・15番線が“郷ひろみ渋谷ゲリラライブ”のような大混乱にはならなかったワケだ。しかし、テレビ局や新聞社のほとんどは引退セレモニーエリアしか撮影しておらず、一般の人々が多いにもかかわらず、「大勢の鉄道ファン」と言っていたのが疑問だ。もうちょっと取材する範囲を広げるべきだ。この報道については視野がせまい。さいわい、ホームで「鉄道マニア」と口にする不謹慎な人間がいなかったのは救いである。
0系は3216両が新製され、走行距離は9億600萬キロ(地球と月を1191往復したことになる)、今まで事故で廃車になったことは1両もない。ちなみに山陽新幹線では2006年まで0系は健在の予定だが、讀賣新聞は「2005年頃までは新大阪-博多間を走る」と記し、朝日新聞では「2007年頃まで現役で頑張るという」と記しており、バラバラ。いったい、どっちが正解で、どっちが不正解なのだろう(答えはみなさん、御存知の通りです)。
◆すでに100系は廃車されていた
東海道新幹線0系フォーエヴァーの2日後、あとを追うかのように平成11年(1999年)10月1日(金曜日)をもって、100系初期車(食堂車のついた2階建て2両のある車両)は営業運転から外れることを知る。すでに100系の廃車は平成11年(1999年)7月から始まっており、わずか4年後の2003年9月16日(火曜日)、臨時〈ひかり309号〉新大阪行きをもって、100系もが東海道新幹線から姿を消したのである。
JR東海が大々的に盛大な0系引退セレモニーをやっただけに、JR西日本の場合は静かな幕引きになってしまうのではないかと思う。機会があれば、山陽新幹線0系に会って、乗ってみよう。
余談だが、2002年5月から山陽新幹線〈こだま〉は塗装を変更し、3年間のあいだに完了させる予定なので、国鉄色の0系が消えるのも時間の問題なのかもしれない。
そして、ついにすべて塗り替えたが、2008年3月から残った3編成18両を元の色に戻し、2008年12月14日(日曜日)で、山陽新幹線も0系の活躍に終止符を打ったのである。
★備考
①今回の記事は2007年12月28・29日(金・土曜日)に掲載した「鉄道の好きな人を『レールファン』と言うのに、どうして変人的な表現でしか呼ばれないのか?」をカットした部分で、一部、加筆と修正をしております。
これは平成11年(1999年)、日本の教育のバカバカしい部分を大いに吠え、大いに批判する本を出版したいと思い、執筆し、売り込んだのですが、人を見る目のない出版社により、刊行することはできませんでした。
②参考文献として、交友社刊行、『鉄道ファン』1999年のとある号(図書館で借りたため、買っていない)、2008年11月号を使用。
③岸田法眼のRailway Blog.「2007年の汽車旅2-3(山陽新幹線まだまだ0系)」はこちらにクリック!!
④岸田法眼のRailway Blog.「2008年の汽車旅4-3(山陽新幹線0系フォーエヴァー-前編-)」はこちらにクリック!!
⑤岸田法眼のRailway Blog.「2008年の汽車旅4-17(山陽新幹線0系フォーエヴァー-後編-)」はこちらにクリック!!
⑥岸田法眼のRailway Blog.「鉄道の好きな人を『レールファン』と言うのに、どうして変人的な表現でしか呼ばれないのか?-前編-」はこちらにクリック!!
⑦岸田法眼のRailway Blog.「鉄道の好きな人を『レールファン』と言うのに、どうして変人的な表現でしか呼ばれないのか?-後編-」はこちらにクリック!!
★おまけ動画

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2008年12月も2者択一サイト、『Unow?』で、「アノ人はなぜハマル?(モハよう著者からの20の質問)」が公開されており、質問28・33・39・43・46で私の画像と解説が掲載されております。ぜひ、アクセスしてみて下さい。
なお、質問を回答するには会員登録が必要となりますので、あらかじめ御了承下さい。
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②『Unow?「モハよう著者からの20の質問」』はこちらにクリック!!
③『Unow?「モハよう著者からの20の質問」』の質問28はこちらにクリック!!
④『Unow?「モハよう著者からの20の質問」』の質問33はこちらにクリック!!
⑤『Unow?「モハよう著者からの20の質問」』の質問39は旧式はこちらにクリック!! そして、新式はこちらにクリック!!
⑥『Unow?「アノ人はなぜハマル?」』の質問43はこちらにクリック!!
⑦『Unow?「アノ人はなぜハマル?」』の質問46はこちらにクリック!!
※②~⑧は2008年12月31日(水曜日・大晦日)まで公開予定です(翌日以降は削除されている可能性がありますので、あらかじめ御了承下さい)。











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